2007年2月13日 (火)

武士として

本日夜は、南浦和の姉夫婦宅に厄介になる。
久しぶりの温かい御飯と、そして、布団。
快適だ。

昨年10月まで住んでいた土地も訪れる。
当時お世話になっていた病院に行っただけだが。

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それ以外で今日行った場所はここだけ。

■近藤勇陣屋跡
 住所 千葉県流山市流山2-108
 電話 04-7150-6085(流山市観光協会)
 期間 通年
 営業時間 見学自由
 料金 無料
 駐車場 なし
 お勧め ★★☆☆☆

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近藤勇と土方歳三が袂を分かった地であり、近藤勇最期の地、下総流山。
現在ここには、それがわかるように石碑が建っているのみである。

この地に関する簡単な歴史の概要だけ記載しておく。

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【戊辰戦争と新撰組】

池田屋事件、禁門の変、と大活躍をして、異例の大出世をした新撰組であったが、鳥羽伏見の戦いでは倒幕軍に敗北し、新撰組他旧幕府軍は江戸へと敗走する。

そして、京都を占領した新政府軍は今度は江戸へと東征してくる。
その際、近藤勇は旧幕府高官に対して、出撃の上申をして、甲陽鎮撫隊として、甲府へ進軍するが、途中甲州勝沼の戦いで、新政府軍の近代的な軍隊に大敗する。

近藤勇は新撰組副長である土方歳三他数名の隊士と千葉流山へと逃れるが、間もなくして、陣屋は新政府軍の軍隊によって包囲されてしまう。

ここで、近藤勇はもはやこれまでと切腹する覚悟をする。
だが、土方歳三が、それでは犬死だとこれを止め、いったん出頭して言い逃れて機会を伺うべきだと提案する。

そして、近藤が出頭している間に土方は脱走。
これが、この二人の永遠の別れとなる。

その後、土方は東北へ向かい会津戦争、そして箱館戦争を経て、箱館で非業の死を遂げる。(それについては、1月30日1月31日の記事を参照)

一方、近藤は新政府軍本陣に出頭して、自分は大久保大和であるとして素性を隠そうとするが、新政府側に近藤を知る者(元新撰組隊士)がいたために見破られてしまう。

近藤に対して下された裁きは。。。斬首。
武士ならば最期は切腹。本来ならば、それが当然だろう。

だが、会津戦争の記事のときにも触れたが、新政府は新撰組には強い恨みを抱いていたので、武士としての切腹ではなく、あくまで天皇に背いた逆賊、罪人としての斬首を申し渡したのである。

斬首された近藤の首は、かつて新撰組がその名を轟かせた京都の三条河原にてさらし首とされた。

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近藤勇は、とにかく君主、すなわち徳川家に最後まで尽くして戦い続け、最期も武士として潔く死んでいく。
武士にとって無念の斬首という最期にもかかわらず、辞世の句では、例え斬首であろうと君主の恩に報いる武士として喜んで死んでいこう、というようなことを言っているのである。

不器用ではあるけど真っ直ぐに信念を貫き通す、近藤勇のそういう生き様こそが、現代になって愛され続けている理由のひとつなのかもしれない。

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本日の走行距離:93km 累計走行距離:8,554km

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